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20代女性向けのプチプラファッション通販ショップはどこ?

自分の家の近所におしゃれなレディースファッションショップがなかったり、忙しくて買いに行けない、なんとなくお店に入りにくいなどの理由から通販ショップで服を買ってみたいと思っている人もいるはずです。
しかし、ネット通販ショップはものすごい数があるので、どこで買えばいいかわからない、怪しげなショップで買ってしまわないか不安という人もいるでしょう。
そんな人のために、安くて可愛い20代向けの安全なレディースファッション通販ショップを紹介しているサイトがあります。

サイトURL:http://xn--20-g73a1pja5jm5f6a6k7h0byftfy233cikwbys5lc7ma.com/
『20代向けの安くて可愛いレディース服通販サイト』

もちろんまだ10代の人や30代以上の人が見ても参考になります。
流行の服にスポットを当てて販売しているショップだけでなく、ナチュラル系、カジュアルモード系などの特定のファッション系統に力を入れているショップも紹介されていますので、「どのショップを見ても全部一緒に見えるんだけど・・・」という印象にはならないと思います。
お気に入りのショップが一つくらいは見つかるはずです。

20代だとまだ学生の人は私服だけあればいいと思いますが、社会人の人は通勤服や仕事着にも気を使いますね。
なるべくおしゃれしたいけどあまり派手だったり肌の露出が多かったりするとダメという難しい部分があるはずです。
参考サイトではそういった通勤服、仕事着に使えそうな服を扱うショップも紹介されています。

これから夏になってきますが、プチプラ系ブランドの浴衣というのもあって、GRLというショップの浴衣などは毎年かなりの人気があります。
GRLではもう今年の浴衣も入荷していて「浴衣+帯+下駄」の3点セットで¥3999 (税込)という安さです。
GRLも参考サイト内でおすすめショップとして紹介されています。

日本で一番安い日本製のカラコンは?

今発売されている日本製のカラコンの中で一番安いのが「トラスティトラスティ」というカラコンです。
とはいっても日本製のカラコンはこれ以外にフォーリンアイズしかないのですが・・・・

フォーリンアイズが高すぎて買えない、日本製カラコンを1回試しに使ってみたいだけなのでなるべく安いものがいい、という人はトラスティトラスティを買ってみるといいです。
でもトラスティトラスティはまだ発売されてあまり経っていないということもあって扱っているカラコンの種類が少ないんですよね。
だからどうせ日本製カラコンを買うのならフォーリンアイズの方が個人的にはおすすめです。
フォーリンアイズの方はかなり種類が多いですから。
ただ注意して欲しいのがフォーリンアイズには日本製と海外製の2種類があるということです。
プレミアムという名前のものが日本製でそれ以外は海外製です。
そしてワンデーには日本製カラコンというのはありません。
1か月タイプのみです。

ワンデーカラコンにこだわりがある人は海外製のカラコンを買うしかありません。
たとえ海外製であっても厚生労働省認可のカラコンであれば安全面ではそんなに心配はいりません。
ネット通販の場合には個人輸入代行方式で厚生労働省に認可されていないカラコンも買えてしまいますが、おすすめはしません。

今は厚生労働省認可のカラコンもものすごく種類が多くていろいろなものがあるので、わざわざ認可されていないカラコンを買う必要はありません。

早くワンデーの日本製カラコンが出てくれるといいんですけどね。

参考:日本で1番安い日本製カラコン

赤ちゃんにも安全性の高い暖房器具

赤ちゃんや幼児がいる家庭では暖房器具選びも慎重になりますね。
一番怖いのが子供が暖房器具にさわってやけどをしてしまうことです。
石油ストーブなどは暖房器具としての能力は高いものの本体がとても熱くなるので小さい子がいる家庭では気を遣う暖房器具です。
寒冷地の場合にはベビーゲートなどでストーブを囲って使うしかないかもしれませんが、それほど冷え込まない地域であれば遠赤外線ヒーターがおすすめです。

遠赤外線ヒーターは赤ちゃんや幼児が本体にさわってしまっても高温やけどをするような温度にはなりません。
もちろんそれでも安全のためにはなるべく触らせない方がいいです。
そして遠赤外線ヒーターのもうひとつの利点が換気不要というところです。
石油を使う暖房器具の場合には使っているうちに空気が汚れてしまうので数時間おきに窓を開けて換気する必要があります。
遠赤外線ヒーターは電気で動くので空気が汚れず締め切った部屋で長時間使用しても大丈夫です。

遠赤外線ヒーターを選ぶ時に気をつけるのは安全装置がついているものを選ぶことです。
ほとんどの機種にはついているとは思いますが、転倒時自動電源オフ機能や異常高温時自動電源オフ機能などがついているものを選びましょう。
転倒時自動電源オフ機能は地震などで本体が倒れてしまったときに自動的に電源がオフになる機能です。
ハイハイをしている赤ちゃんが誤ってヒーターを倒してしまうこともあるかもしれないのでこの機能は必要です。
そして異常高温時自動電源オフ機能は本体にシーツがかぶさってしまったときなどに本体の温度が一定以上になったときに自動的に電源が切れる機能です。

あとはヒーター部分に赤ちゃんの指が入らないかも確認しておいた方がいいです。

このあたりに気をつけて選べば遠赤外線ヒーターは赤ちゃんにとってもかなり安全な暖房です。
とはいってもなるべく赤ちゃんのことは注意深く見ていてあげてください。

このように、赤ちゃんがいる家庭では遠赤外線ヒーターがおすすめです。
参考サイト:赤ちゃんのいる家庭におすすめしたい安全な暖房器具

宮本百合子の作品2

 思わず地声で高く言ったみや子は、紛らすように顔をそむけて咳払いをした。彼女はむせたような、ややわざとらしい低声で云った。
「日下部も元気なようでも年でございますから、近頃はよく日曜にかけて気楽に暖い海辺にでも参りたいと申すのでございますが――矢張り手頃なところはもうちゃんと何方かがお約束でございましてね」
「本当に――お国元ももう少々近うございますとよろしいのですが」
 みや子はやがて、空想に浮ぶ沼津の風光の美しさに我知らず恍惚したように呟いた。
「沼津あたりはさぞおよろしゅうございましょうねえ、上つがたのお邸さえございます位ですもの。――年をとりますと不相応な我ままが出まして、宿はどのように鄭重にしてくれましても何処となし落着のないものでございます……」
 子爵夫人は、蒼白い気の優しい顔にぼんやり同情とも困惑ともつかない表情を浮べた。彼女は暫く黙っていたが程なく独言のように呟いた。
「若し……」
 みや子の夫人に向った一方の耳はむくむくと大きくなって行くように鋭く次の言葉を待ち受けた。が、みや子は、凝っと何も心づかないらしい静粛を守って睫一つ戦かせなかった。夫人はつづけては何も云わない。みや子のうつむいた前髪はこの時彼方にいる良人に向って、
「今何か云い出してはいけませんよ。夫人は私共に大事なことを思いつけかけていらっしゃるのです」
と警戒しているように見えた。

 とにかく、米国人は一般からコムマーシャールの方を多く持ち、日本人は名人気質の方を持っているように私には思われました。そして、米国では日本なぞよりも執筆者が数からいっても割合からいっても遙に多いが、その執筆者も或る雑誌が買ってくれているから書いているので、その雑誌が買わなくなれば今度は他の雑誌へ問い合わせて買う約束が纏まればやはり書きもするが、どこでも買わないとなるとその人は執筆の方の為事はやめてしまいます。そういう人の方が多いようです。そこへ行くと、日本人にはその作品がなっていようがいまいが、他人が買おうが買うまいがそんなことはおかまいなしに、ただ書かずにいられないから書くという心持からその為事に没頭する気質が強いように考えられます。
 今私が言おうとする青年の同人雑誌にしても、彼方ではそういう風船玉みたいな気軽い陽気さで、つまり口笛を吹けば皆んなが集って一緒に騒ぐというようなところが本質的なものとなって、やっているのです。強ちそれが悪いともいえませんけれども、文学というものを、一般が単純に「趣味」という範囲に限られた心持で考えているということは、申されましょう。
 私のいたニューヨークに、昔オランダ人が上陸した当時から開かれたガリーンウィッチ・ビレージと云う街があります。そこは芸術家の多く住む気取った一区画として知られていますが、そこの若い人々が出している『プレー・ボーイ』という同人雑誌などは、あちらの新らしい、先へ先へ行こうとする所謂「若い芸術家の群」の気分を示していると思います。詩、絵、短篇小説類を集めた大判の雑誌で、それを見ると、彼等の陽気さ、活気、或る時には茶目気をふんだんに感受することが出来ますが、英国で嘗て、ビアーズレー、エーツ等の詩人、画家が起した新運動等は、これらの同人雑誌から期待することは出来ません。

「日は輝けり」は一九一七年一月に発表された。大都会のゴタゴタのなかで、生活と闘いながら自分を成長させようとしている一人の青年を中心に、一つの家族を描こうとした。作者の未経験が許す限り、リアリスティックであろうとしている。けれども、今日の読者は、発見するだろう。この一生懸命で濃厚な作品に、本質的な未熟さとしてあるのは、庶民の生活感情と勤労者の生活感情とのちがいについて、作者がちっともわかっていないという点であるということを。
「一つの芽生」は、弟の死という事実に面して、その悲しみをどこまでも客観的に追究し、記録しておこうとする熱意によってかかれた短篇である。今日、よみかえしてみて興味のある点は、この短篇が、死という自然現象を克明に追跡しながら、弟をめぐる人間関係が、同じ比重で追究されていないところである。これは、なぜだったのだろう。
 生きる歓喜にむせぶような心もちの少女が、死の迫って来る力、生命の消されてゆく過程に、息をのんで凝視したこともわかるが、しかし、人間関係が二次的に扱われたことに、意味ふかい限界が示されている。十九の少女は、自分の日々がその中で営まれている環境の内部にある複雑な家族関係とその感情、弟の短い生涯を悲劇的にした家族制度の因習ということには、とりくむ実力をもっていなかったことが、この短篇に語られているのである。
「貧しき人々の群」「日は輝けり」などで、環境をとび越えられそうに見えた一人の少女の生活と文学との現実の過程は、「一つの芽生」に暗示されている環境そのものから来ている無力と未熟さによって、ひきもどされ、更にきびしいもみ合いに向わせられたのであった。

宮本百合子の作品

 去る十二月十九日午後一時半から二時の間に、品川に住む二十六歳の母親が、二つの男の子の手をひき、生れて一ヵ月たったばかりの赤ちゃんをおんぶして、山の手電車にのった。その時刻にもかかわらず、省線は猛烈にこんで全く身動きも出来ず、上の子をやっと腰かけさせてかばっていた間に、背中の赤ちゃんは、おそらくねんねこの中へ顔を埋められ圧しつけられたためだろう、窒息して死んだ。
 この不幸な出来ごとを、東京検事局では、「一般のお母さんへの警告」として、過失致死罪として起訴した。殺人電車、赤ちゃん窒息という見出しで新聞はこの事件を報じた。そして、この不幸は母親ばかりの責任ではなく、我もろとも十分に知りつくしている昨今の東京の交通地獄の凄じさに対して、熱意ある解決をしない運輸省の怠慢について、注意を喚起した。
 世間の輿論は、不幸な母親由紀子さんに同情を示し、結局、東京検事局は起訴猶予とした。そして、忙しくて乏しい歳末の喧騒にまぎれて、この事件は忘れられ、今日、私たちは、その事件のおこった当日と大して変りない暴力的交通状態の下に暮しているのである。

 第一私どもの目からみると議会内の大蔵委員会という重要な新給与予算の委員会席上で、あんなに酔うほど酒がでるということがそもそもひどいことだと思います。なにもうちでのめない連中ではなし、ごあいきょうの程度をこえています。公務員法をむりやりとおしてはじめからきらわれている吉田内閣は新しい選挙をひかえて、いくらかでも人気をとりかえすために食糧問題や転入自由の景品をだしました。「住宅問題の解決や賃金問題の解決はぬきにして」きたるべき選挙に今日の政府は勝算をもっているかもしれない、それだから組閣のはじめに用心深くさまざまの疑獄事件にひっかかりそうな閣僚をさけました。社会党のくされぐあいがあんまりひどかったおかげで吉田内閣にそれよりはましな人のあつまりのような利益をあたえました。
 選挙をまえにして民自党はどんなにいい評判をとりたいでしょう、ところがおきの毒さまにも十三日の新聞にあらわれた泉山蔵相の事件のようなことがあらわれて最後の幕切れとなった。要するに吉田首相とその乾分は世界のブルジョア政治家も裏面でしかあらわさないような男としての醜態を参議院で演出してもう民自党に投票してくれないでもいいんだということを天下に声明しました。

 先頃、友情というものについてある人の書かれた文章があった。その中にニイチェの言葉が引用されている。「婦人には余りにも永い間暴君と奴隷とがかくされていた。婦人に友情を営む能力のない所以であって、婦人の知っているのは恋愛だけである」と。その文章の筆者は「婦人についてかく言い得るや否やは、問題であるけれども」とただし書を添えながら、元来友情は、お互が対等であって互に尊敬し合うことのできる矜持ということが重要な契機であるから、奴隷や暴君が真の友情をもち得ないということの強調としていられるのであった。
 今の時代の生活の感情のなかに受けとって味わうと、ニイチェのいった言葉もひとりでに彼の生きた時代のものの考えかたを歴史的に映し出していて面白く思われる。この詩人風な哲学者が「婦人のなかには」云々と一方的にだけいっていて、そのような婦人が存在する社会の他の現実関係として、当時の男性が婦人に対して持っていた習俗なり態度なりについては、男自身のこととしてまるで省察の内にとりあげていないのは興味があるところではなかろうか。婦人の知っているのはそればかりとされている恋愛にあっても、そういう相互関係のなかでは、やはり婦人のうちなる暴君か奴隷かが跳梁して、つまりは彼のもう一つ別な有名な言葉、すなわち、「女には鞭をもって向え」という結論をも導き出せたのだろう。歴史の鏡にうつる姿として今日見れば、婦人についてのそういうさまざまの表現は、とりもなおさず男の気持の裏からの告白であり、女とのいきさつでは男の中にも「あまりにも永い間暴君と奴隷とがかくされていた」ことを計らずも語っていることにもなって来る。